ここ数年、情報ネットワークの世界的拡大のおかげで、科学分野でも「ソーシャル」という言葉が流行っている。FacebookやTwitterのような、社会的現象に対する科学的アプローチ(実験・検証)の手段を提供してくれるツール(実験装置)の普及は、今後の「社会的科学」の急速な進展を期待させる。ただ、私自身は、社会的科学の先に何があるかという点により大きな期待を持っている。そのような将来の科学的アプローチの可能性の一つが、「主観的科学」である。

主観的科学とは、文字通り「主観的現象に対する科学的アプローチ」のことで、ここでいう「主観的現象」とは、ほぼ「意識的現象」(「認知的現象」と言ってもよいが、その場合は少し意味が変わることになる)である。つまり「意識を科学する」ということだが、これまで脳科学者等が言っているクオリアなどの(情緒的な?)説明ではなく、意識の何が検証可能で何が検証不能かを(論理的かつ物理的に)識別できる説明体系を考えるという点が「科学」である。

社会的科学では、個人の間の関係性やそれによって作られる全体構造に関心があり、そこにフォーカスするためにも、個人を外部インタフェイスによりブラックボックス的にモデル化することが有効なアプローチとなる。基本的には、自分も他人も同じ個人としてモデル化され、それらの個人が集まった社会全体も、誰から見ても同じモデルとなる。これに対して、主観的科学では、個人の(外部インタフェイスには現れない)内部状態やその変化に関心があり、自分と自分以外の人々が同じモデルであることを前提としない。結果的に、自分を含む(自分の外側にある)社会全体も、見る人により異なるモデルとなる(極端に言えば人の数だけモデルが生じる)可能性がある。

主観的科学には、二つのツールが必要となる。一つは、自分の物理的な外部刺激(感覚器官の入力情報)や活動状態(脳や身体の活動情報)等の計測可能情報をデータ化(数値化、可視化等)するツールで、もう一つは、直接計測不能な自分の内部状態(意識や認知)等を自分自身で外部化(表現、記録等)あるいは制御(バイオフィードバック等)できるように支援する(それにより直接計測不能な主観的現象の主観的なデータ化を可能にする)ツールである。後者のツールの出力データは各個人の内部構造や内部状態に依存するという意味で「客観的」ではない(再現性が無い、若しくは、低い)。しかし、前者のデータと関連付けて統計的な処理を行うことにより、後者のデータの共通性を見出すことができれば、そこには社会的科学のアプローチと同程度の客観性が生じる。さらに、最も重要なのは、後者の外部化され制御可能な意識状態については、個々人が自分自身で追実験を行うことで検証が可能だという「主観的客観性」である。これを重視することが、主観的科学を「科学」の一種として扱うかどうかの決定的要因となる。つまり「自分自身で検証する」という参加型の新しい科学を考えることになる。

主観的科学が何をもたらすかという点で、私自身は純粋に「意識とは何か」についての科学的知見がより深まることに興味と期待を持っている。しかし、実際には、主観的科学からより幅広い成果が得られる可能性がある。例えば、コミュニケーションとは何か、苦痛とは何か、芸術とは何か、幸せとは何か、といった問いに対する一つの科学的な答えが得られるかもしれない。これらの問いは、これまでは哲学等の分野で扱われており、科学からは程遠いものだと思われてきた。主観的科学がその状況を変えるきっかけになれば、さらに言うなら「多くの人々の観測や洞察を結集して科学的近似(仮説)を進化させていくことで、より本質的(≒主観的)な人間の問いかけの答えに近づく有効な手段となれば」、それは人類の貴重な資産になるに違いない。

まあ、考えようによっては、攻殻機動隊やマトリックスのような世界になるかもしれないが、それを実現可能にするのも、それを選ぶかどうかを考えるのも、主観的科学以外に有り得ないのではないかと思っている。少なくとも、あと50年くらい生きないと、その世界を見ることは無さそうではあるが。