拡張現実と仮想現実の境界は曖昧である。両者を厳密に定義してその違いを明確にすることがこの話の目的ではないが、なぜ曖昧なのかを考えることにより、曖昧であることのメリット、すなわち、現実の中に仮想世界を持込んで境界も分からないように違和感なく自然につないでしまうことで現実を拡張できる、というメリットが見えてくる。
文学は、一般的には仮想現実であるが、拡張現実としての文学も在り得る。宗教は、少なくとも信者には拡張現実であるが、そうでない人には仮想現実かもしれない。科学ですら、それを知らない人から見れば、仮想現実(マジック)になってしまう。人によって拡張現実と仮想現実の境界が変わるということは、以前に述べた認知中心原理の延長線上にあるが、人間の認知構造の柔軟さと個体差の大きさを表す事例ともいえる。このことからも、多くの人々に「共通」する現実の認知構造と、その拡張における「人による差」の両面を考えることが重要となる。つまり、現実とつなぐための(視覚や聴覚のような)「共通のルール/仕組み」とそれを拡張する(文学や宗教のような)「異なる枠組/シナリオ/コンテンツ」の組合せが重要となる。
文学等の世界は、1次元の流れに沿って書くという制約の中で、これまで多くの実証実験を行って検証を重ねた結果として、人間の「認知的な時間」を活用するための非常に良い手本となる「物語のパターン」を数多く提供してくれている。そのパターンを「認知的な時間」の雛形とし、現実の人間が登場人物となり、現実の出来事が話のコンテンツとなって、物語を完成させていくことを目標とした「拡張現実」が人々をつなぐようになる時、人々がそれぞれの物理的な時間を認知的な時間軸に変換しつつ、異なる人々の認知的な時間軸が一つの物語の中で関連付けられて、拡張現実の中で一つの共通した認知的な時間軸を形成することが可能になると思っている。現実へのマッピングを伴うソーシャルゲームの発展形のようなものではあるが、主軸が仮想世界になるのではなく現実世界(の認知構造)にある点が重要な違いである。つまり、現実を拡張して効率を高める(時間軸変換の)ために仮想世界(物語の認知的な時間)を活用する、ということである。
拡張現実は、文学や宗教や科学と並ぶ、あるいはそれを超える「ファンタジー世界」を創り出すための入り口となっていくのかもしれない。実は、「科学」についても同様のアプローチを考えることができ、それによって科学の可能性を大きく広げられるかもしれないと思っているのだが、これについてはまた別の機会に説明したいと思う。